烽火西夏

  西暦1,044年5月、遼国国内の党項族が反乱を起こし、遼国は軍を集めて反乱を鎮圧し、元昊は援軍を出したが、なんと遼国の使臣まで殺した。怒り果てた遼興宗は国内で人馬を調達し、自ら西夏を討伐しようとした。このような情況で、西夏国はなおさら宋国との和解を急がせた。最後、元昊がもっといい条件を出したため、宋と夏が和解した。その年の十月、遼夏の二か国が大戦を始めた。

 

  西暦1,044年5月、遼国国内の党項族が反乱を起こし、遼国は軍を集めて反乱を鎮圧し、元昊は援軍を出したが、なんと遼国の使臣まで殺した。怒り果てた遼興宗は国内で人馬を調達し、自ら西夏を討伐しようとした。このような情況で、西夏国はなおさら宋国との和解を急がせた。最後、元昊がもっといい条件を出したため、宋と夏が和解した。その年の十月、遼夏の二か国が大戦を始めた。

 

  遼興宗は怒りが収まらず、連続で三本の大軍を出し、全部で十万人の精兵が黄河を渡り、西夏国域内へ迫ってきた。大軍がひたすら四百里も突進して、全く抵抗に遭わなかった。最終的に、遼軍は賀蘭山の北麓で元昊の部隊を発見し、勢いよく進撃して、夏軍を破った。元昊は宋軍によく勝っていたため、初めて自分と同等な実力を持つ遼軍に直面していると、かなりのプレッシャーを感じた。特に遼国から次から次へと現れる援軍を見た時に、尚更恐れた。すると、元昊はまた時間を稼ごうとして、使臣を派遣して遼興宗に謝罪して投降した。遼興宗は許してやろうと思ったが、その大臣の韓国王簫恵などの人は反対した。彼らはその勢いに乗って元昊を潰し、後の憂いを絶ったほうがいいと遼興宗を説得した。遼興宗はさんざん考えた末、その意見を受け入れた。すると、遼国の韓国王簫恵は先鋒として、また元昊の西夏軍を攻めた。元昊はこのままだと大変なことになると意識し、すぐに撤退しながら、途中の全ての食糧と住居を焼き捨て、一気に百里も撤退した。

 

  このような焦土政策が役に立った。遼国の十万大軍は元々戦争から補給を得ようとしたが、こんなことされると、すぐにロジスティクスの保障を失い、人と馬の食べ物がなくなってしまった。特に遼国の馬は食べ物がないために、大半死亡してしまった。この時元昊はタイミングよくまた「投降」を申し出た。両国の君臣は大本営で打ち合わせているときに、元昊は突然猛烈は攻撃を発し、簫恵の本営へ直撃した。簫恵も無能な人ではなく、すぐに軍を整えて対戦し、また元昊を敗退させた。遼軍は追撃しようとしたところ、突然狂風が起こり、遼軍を襲った。古代の人が迷信なので、特に契丹人が尚更鬼神を信じていた、風が起こった時に、兵士も将領も胸騒ぎがして、大混乱した。一方元昊はとっくに地元のこのような突然狂風が起こる天気に慣れていて、すぐに反撃するように夏軍に命令し、遼軍をほぼ全滅し、数十名の遼国貴族大臣を捕虜した。遼興宗本人は僅か数十人を率いて辛うじて逃げて、自分のこの妹婿の囚徒になってしまうところだった。

  こうして、遼軍が大敗し、西夏国が西北で立脚でき、宋、遼、夏の三国鼎立の局面になった。西暦1227年、西夏はモンゴルに滅された。